築城年代は定かではないが布施氏によって築かれたと云われる。 布施氏は一乗院方の国民で平田庄八庄官の一員であった。
松永久秀によって筒井城から追われた筒井順慶を布施城に迎え、永禄8年(1565年)には松永方の高田城を攻めるなど反撃した。その後、織田軍の支援を得た松永久秀によって布施城が攻められ、周辺を焼き払われるなどしたが落城しなかった。
布施城は金剛山地から東へ派生した尾根の中腹、標高460m付近に築かれている。
布施城は山頂の主郭を中心に東へ伸びた尾根に曲輪を展開する。尾根は途中で北と南に分かれその両側に曲輪が付いている。
主郭は最高所にあり、現在本丸として整備されているのは櫓台のようである。背後には大きく堀切があり、そこから西へ伸びた尾根の南北両側に連続竪堀が残されている。この尾根は登山道(作業道)によって大きく削り込まれているため、部分的には堀切となっていたのかもしれない。
主郭からは高い切岸と良く削平された曲輪がひたすら段々と連なっている。よく手入れされた山林であるため道はなくとも歩きやすくなっている。かなり下へ降りた所に背後を大堀切で遮断し櫓台を設けた曲輪がある。谷を挟んで南側の曲輪群は東端部の曲輪から少し降りた所に畝状竪堀群が残っている。
葛城市大屋にある慶雲禅寺には布施氏三代の墓が残されている。
県道254号線寺口交差点に「二塚古墳」への道標が出ている。ここから寺口集落内に入り「二塚古墳」へ向かって道なりに進むと古墳との分かれ道となる。これを曲がらずに西へ直進していくとやがて細い林道となり、動物除けの柵がある。ここが登山道入口で、この柵の手前の水道施設の脇に車を駐める事ができる。 (地図)
舗装路で普通車でも来ることができるが、両側を草でこすることになるので気になる人はどこかへ置いてくるのが良い。
最寄り駅(直線距離)