築城年代は定かではないが明応年間(1492年〜1501年)に五島光明が屋敷を構えたのが始まりと云われる。
天文年間(1532年〜1555年)に尾張国上四郡守護代岩倉城主織田伊勢守信安の家老山内但馬守盛豊が城代として黒田城を居城とした。この盛豊の二男が江戸時代土佐藩主となった山内一豊である。
弘治3年(1557年)織田信長の夜討によって落城し、山内盛豊と長男十郎は討たれ(諸説ある)、一豊は黒田城を出て岩倉城へ逃れた。その後、犬山城主織田信清の弟織田広良が城主となった。広良は永禄5年(1562年)美濃国十九条城の守将となっていたとき、斎藤道三との戦いで討死、黒田城には犬山城織田氏の家老和田新助定利が入った。
永禄元年(1558年)和田定利は織田信清に従って織田信長とともに岩倉城主織田信安と浮野で戦っている。しかし、その後、中島豊後守とともに信長に降り、信長の犬山城攻めに荷担した。
天正2年(1574年)定利は伊勢国長島攻めに従軍して討死し、定利の弟和田八郎定教が黒田城主となった。天正10年(1590年)信長が本能寺の変で倒れると、清洲主となった織田信雄の家臣沢井左衛門雄重が黒田城主となり一万貫を領した。
天正18年(1590年)秀吉による小田原征伐で討死した一柳直末の家督を弟直盛が次ぎ、黒田城三万石に封ぜられた。関ヶ原合戦で直盛は東軍に属して戦功を挙げ、伊勢国神戸五万石で転封となり、替わって尾張国清洲五十二万石で入封した松平忠吉の家臣富永丹波守忠兼が黒田城主となった。
黒田城は黒田小学校一帯に築かれていたという。現在小学校の北東隅部分に冠木門を設けた小公園があり、黒田城の案内がなされている。
線路を越えた北東側に法蓮寺があり、ここに山内盛豊・十郎父子の墓が残っている。