築城年代は定かではないが天文19年(1550年)頃に神戸具盛によって築かれたと云われる。 神戸氏は伊勢平氏関氏の一族で、関盛政の長子関盛澄が鈴鹿郡と河曲郡内二十四郷を領し、沢城を築いて神戸氏の祖となったと云われる。
永禄10年(1567年)神戸友盛のとき、織田信長の家臣滝川一益の侵攻を受けたが、高岡城に籠もった山路弾正がこれを凌いだ。翌11年(1578年)にも織田氏が攻め込み、神戸友盛は信長の三男信孝を養子として迎えることで和睦となった。
元亀2年(1571年)信長は神戸友盛を沢城に隠居させ、信孝を神戸城主に据えた。その後、友盛は近江の蒲生氏に預けられたが、これに反発した山路弾正らは神戸城奪還のために高岡城で挙兵しようと画策したが、計画が発覚して弾正は切腹となり、高岡城には小島兵部が置かれた。
天正8年(1580年)神戸信孝は神戸城を拡張して五重の天守を設けた。 天正10年(1582年)信孝は四国攻めの総大将として堺にて渡航の準備をしていたが、本能寺の変が勃発して中止となり、秀吉に合流して明智光秀を討った。その後、信孝は岐阜城に移り神戸城には小島兵部が入った。信孝はその後、賎ヶ岳合戦に際して柴田勝家と結んで岐阜城で挙兵したが、羽柴秀吉によって岐阜城が攻められ降伏して開城し、知多の野間大坊で自刃した。
天正15年(1587年)水野忠重が三河国刈谷より移ったが、文禄元年(1592年)再び三河国刈谷に移り、滝川雄利が城主となった。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長5年(1600年) | 滝川雄利は西軍に味方して改易。 尾張国黒田より一柳直盛が五万石で入封。 |
寛永13(1636年) | 一柳直盛は伊予国西条に転封。 神戸城は破却されて天領となる。 |
万治3(1660年) | 伊勢国内より石川総長が二万石で入封。 |
享保17(1732年) | 石川総茂は常陸国下館に転封。 河内国西代より本多忠統が一万石で入封。この本多氏の時代に荒廃していた神戸城が整備された。 |
延享2(1745年) | 一万五千石に加増。以後、本多氏が明治まで続く。 |
神戸城は現在の鈴鹿市の中心部にあり、神戸高校の西側に公園として整備された本丸が残り、天守台が現存する。天守は神戸信孝時代に五重の天守が聳えていたが、文禄4年(1595年)に桑名城に三重櫓として移築され神戸櫓となった。それ以降は神戸城には天守は存在しなかった。
平櫓(移築 櫓)
城門(移築 城門)
城門(移築 城門)
神戸高校を目指すのがわかりやすい。高校の西側に公園があり、公園の北側に駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)