築城年代は定かではないが文治年間(1185年〜1190年)に後藤左衛門尉基清によって築かれたと云われる。
永禄年間(1558年〜1570年)に織田信長によって攻められ後藤藤勝は討死したという。
采女城は足見川が内部川に合流する地点の北岸にある丘陵に築かれており、現在は公園として整備されている。土塁囲みの大規模な曲輪群や空堀が残る山城で見学し易くお勧めの城である。
城は主郭を中心に南北、西、南西に伸びる尾根に曲輪を展開している。
主郭は分厚い土塁囲みで中央に井戸があり、南西には桝形虎口1を開く。虎口1から土橋を経て曲輪Vに至る。曲輪Vは現在の登城路が上り詰める虎口2があるが、北側には堀切10の堀底を経て主郭の西側面へと行くことができる。ここからは曲輪IIの虎口4、曲輪IIIの虎口5、曲輪IVの虎口など各方面の虎口に通じており、これを介して曲輪間を移動していたと思われる。
主郭の北には大規模な空堀4を経て曲輪IIがある。虎口4は空堀を閉塞する土橋とも繋がるが、西側面に降りていたと思われる。南を除く三方に土塁があり、北西隅は北へ張り出した櫓台となる。
曲輪IIIは大規模な堀切5で区画され、この曲輪も南を除く三方に土塁がある。溝切りなど凹凸が多いのが開墾されていたのだろうか。北西尾根は堀切7があり、東へ続く尾根には幅広の堀切6があるが土橋が架かっている。
曲輪IVは南辺は崩落したのか土塁がないが、北辺の土塁は細かく折れている。西尾根は大規模な堀切9で遮断している。
堀切9の先は緩斜面の尾根が続くが、麓近くに曲輪群IXとXがある。曲輪群Xは土塁と溝で区画されているが、溝は開墾のものだろうか。堀切12の先には曲輪Xがあり、五輪塔や宝篋印塔の石塔群がある。
主郭Iの南方に曲輪VIIIがある。南端には虎口3があり、堀切1には土橋が架かっている。ここもまた、現在の登山道がある南谷から曲輪VIIIの西側面を経て繋がっている。
曲輪Vの南西下にある堀切11の先には曲輪VIと曲輪VIIがある。曲輪Vは堀切側に対して高土塁状に尾根を残し、下方を削り込んで削平地を設けている。曲輪VIIも同様に北側の尾根をそのまま土塁状に残して削り込んで削平しており、伊賀や甲賀でよく見られる曲輪の造成方法である。
城山の南、内部川の北岸を東西に走る道沿いに登山口がある。
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