詳細不明。城主は武藤弥平兵衛で天正3年(1575年)信長によって越前国敦賀郡を賜り、天正7年(1579年)に病死、子の武藤助十郎が跡を継いだという。
この武藤弥平兵衛は武藤舜秀のことで、天正2年(1574年)越前守護代となっていた前波吉継が一揆によって討たれ、混乱状態となっていた越前に羽柴秀吉とともに派遣された人物である。出自はよくわかっておらず、この馬寄城に居たとも云われるが、若狭の武藤氏一族とも云われ詳らかではない。
天正3年(1575年)越前国北之庄城に柴田勝家が封ぜられると越前国敦賀郡を与えられた。天正5年(1575年)には雑賀攻め、更に加賀攻め、天正6年(1576年)播磨国神吉城攻め、天正7年(1579年)摂津国有岡城攻めに従軍するなど重用されていたが、有岡城攻めの在陣中に病死した。
舜秀の跡は武藤助十郎康秀が継いだ。康秀の動向は定かではないが、天正10年(1582年)甲斐の武田氏が滅亡した後に甲信へ出陣。小牧長久手合戦にともなって佐々成政が加賀の前田利家と戦った際に、前田氏に従って佐々成政軍と戦ったことが知られている。
馬寄城の位置はよくわからないが、「史跡散歩 愛知の城」によれば字「東更屋敷」にある敬應寺付近とし、「愛知県中世城館跡調査報告i(尾張地区)」では字「中屋敷」一帯を推定地としている。この辺りには他に「西更屋敷」・「桑屋敷」などの地名が残っている。