天正9年(1581年)羽柴秀吉の鳥取城攻撃の前に吉川経家が鳥取城の出丸として築いた。
この城は毛利水軍から鳥取城へと輸送する中継地としても活用され、ここで水揚げされた輸送物資が雁金城を経由して鳥取城に運ばれた。
羽柴秀吉は雁金城を落とし因幡沖の制海権を押えることで鳥取城の落城を待ち、天正9年(1581年)10月24日吉川経家が自刃し開城、この城に籠っていた奈良日本助、塩冶周防守、佐々木三郎左衛門も自刃した。
丸山城は鳥取城のある久松山から北西に伸びた尾根の先に独立した比高80m程の丘陵に築かれている。かつては弘法寺というお寺が建っていたが、現在は廃寺となっている。
四方急峻な山であるが、山上は広くほぼ平坦である。南の谷間から登ると南東隅の虎口らしき地形の部分に至る。ここから入ると淵が土塁となった通路状地形になり、西へ進むと寺跡などがある。城内は広く平坦で、仕切り土塁のようなものもあるが、寺院建立のための地形変更とも考えられ不明である。
登り口は南の住宅街の奥にあり、立ち入り禁止の門の脇に細い登り口が見える。
奈佐日本助や塩冶周防守の墓が西麓の道路に面して残っている。
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