築城年代は定かではない。はじめ福光氏の居城であったと云われる。
永禄2年(1559年)石見に侵攻して温湯城の小笠原長雄を降した毛利元就は、吉川経安に福光氏の所領を与えた。これを機に吉川経安は福光城を改修して殿村城から居城を移した。
永禄4年(1561年)本明城の福屋隆兼が毛利元就に叛いて挙兵し、福光城の吉川氏を攻めたが、これを撃退している。
天正9年(1581年)織田信長の家臣羽柴秀吉が因幡国鳥取城を攻めたとき、信長に降ろうとした城主の山名豊国を家臣の森下道誉と中村春続が追放した。森下と中村は吉川元春に支援を要請、これに応じて吉川経安の子、吉川経家が鳥取城へと派遣された。鳥取城に籠城した経家は兵糧がなくなるまで織田軍に抵抗し、最後は城兵の解放を条件として自身が切腹し開城した。
その後は経家の子経実が城主となったが、毛利氏が関ヶ原合戦に敗れ、防長二カ国に減封となると、経実は吉川広家の家老として周防国岩国へ移り廃城となった。
福光城は不言城(ふげん),物不言城(ものいわず)とも呼ばれ、国道9号線と県道32号線の交差点の南に聳える標高100m程の山に築かれている。現在は登山道が整備され、山上はきれいに草刈りされている。
福光城の主郭は山頂にあり西に向かって大きく三段の曲輪があって、二の丸、三の丸の看板が建っている。主郭は北東側に土塁がついているが、二の丸、三の丸辺りは削平されているだけである。北西に伸びた尾根の先端、登山道入口から登ってすぐの所が居館跡で、石積などが残り、広い削平地がある。この居館から本丸に続く山腹に番所跡と呼ばれる石積された小さな段があり、登山道がすぐ脇を通る。このような番所のような遺構が残る山城は少ない。
主郭から東へと続く背後の尾根は明瞭な堀切はなく、自然の鞍部のようである。ここから続く山道を登っていくと「馬洗い池」と呼ばれる大きめの池があり、そこからまた少し登りと上ノ丸と呼ばれる削平地がある。
国道9号線沿いに案内板が建っている。ここから南の橋を渡り、すぐ左の細いコンクリート舗装された道を行けば登山道入口がある。車は橋の周辺に駐める事ができる。(地図)
最寄り駅(直線距離)