築城年代は定かではないが祖式氏によって築かれたと云われる。 祖式氏は石見小笠原氏の庶流で小笠原上総介兼長の二男式部少輔堅兼を祖とするが、出羽氏の庶流とする説もある。
弘治2年(1556年)吉川元春が石見へ侵攻したとき、祖式堅兼(友兼)がこの陣に加わった。永禄2年(1559年)毛利軍は尼子の家臣本城常光が籠もる山吹城を攻めたが攻略できず、退陣したとき祖式氏の居城に退き五六日逗留した。
関ヶ原合戦の後、毛利氏が防長二カ国に減封となると祖式氏もこれに従い萩へ移った。
高城は祖式の中心部の北西にある標高500m程の山に築かれている。祖式氏の居城は一般的に矢滝城とされ、この高城はその出城とされている。また伝承によれば旧祖式小学校(現在の郵便局の東隣の公民館?)付近に土居があったとされる。
高城は堀切で区画された連郭式の山城で、大きく三つの曲輪が東西に並ぶ。主郭ははっきりとしないが、東の曲輪であろうか。
東端尾根は二重堀切で上下二段に掘りきっている。東の曲輪は東西に長く三段程の平地で西端が一番高く、土塁が付いている。中央の曲輪は西端に櫓台状の高まりがある。 西の曲輪は東端の堀切に面して一段高くなった小段があり、北に土塁が付いている。 いずれにしても城内は藪になっていて見通しがきかない。
登山道はないが、簡易水道施設の所から尾根伝いに踏み跡が残っており、城跡まで行くことは可能である。ただ道中も城内も笹薮であり、ずっと藪をかき分けながら登っていくこととなる。取り付いた所はここ。
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