築城年代は定かではないが鎌倉時代末期に川上房隆によって築かれたと云われる。 川上氏(かわのぼり)は弘安の役の後、宇都宮宗綱(中原宗綱)の次男中原宗秀の後裔中原房隆が近江国より地頭として下向し、川上氏を名乗ったことに始まるという。
南北朝時代に川上氏は南朝方となり、度々北朝方の攻撃を受け、観応元年・正平5年(1350年)高師泰の攻撃によって落城、川上五郎左衛門は同族の都野氏を頼って落ちた。 翌正平6年(1351年)には信濃国西那荘より佐々木兄弟が地頭として入部し、兄佐々木祐直は川上の地頭として松山城に入り河上氏を称し、弟佐々木行連が今井城・佐賀里松城に入り都治氏を称した。
天文年間(1532年〜1555年)に河上氏は本明城主福屋隆兼の攻撃を受けて落城、福屋隆任が城主となり川上氏を名乗った。
永禄4年(1561年)福屋氏は毛利氏に叛して尼子氏につき、福光城を攻めたが、逆に毛利氏によって攻撃され松山城は落城した。福屋氏は滅亡しその後は小笠原長旌の所領となった。
城は南と西に江の川、東には上津井川に囲まれた山に築かれている。
主郭部は南北に曲輪があり、北の曲輪の北端に塚、その北の鞍部に井戸が残り、北西側へ回り込むと畝状竪堀群が残る。
主郭の南は堀切で、そこから西方向に削平地が連なり、南側面に畝状竪堀群がある。
西尾根に連なる削平地の東を南へ回り込むと桜丸へ通じる細尾根の削平地があり、それの南端を南西方向へ降りて行くと桜丸へ通じる。桜丸の背後は堀切と竪堀があり、桜丸の背後と北面に土塁が残る。
江津市内から国道261号線を南下すると、県道221号線との交差点を過ぎた辺りで松平小学校への道標がある。これを集落内へ入り、直ぐに左折して山の方へ進み突き当たりを左折して山道を進むと城山への入口(地図)に至る。入口周辺に駐車可能。
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