石見 本明城いわみ もとあけじょう

城郭放浪記


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石見 本明城の写真
掲載写真数
形態
山城(417m/280m)
別 名
乙明城,音明城,福屋城
文化財指定
市指定史跡
遺 構
土塁,郭,堀
城 主
福屋氏
歴 史

天福2年(1234年)福屋兼広によって築かれたと云われる。 福屋氏は七尾城主益田兼高の三男兼広が、天福元年(1233年)に那賀郡阿登郷福屋郷の地頭職となって福屋氏を称したことに始まる。

建武2年(1335年)足利尊氏が朝廷に反旗を翻すと 宗家益田兼見は足利尊氏に味方したが、福屋氏は同じく益田氏庶家の三隅氏や周布氏などにともに宮方として戦った。

福屋氏十二代福屋隆兼は天文9年(1540年)尼子氏が毛利氏の吉田郡山城を攻めに従軍した。しかし尼子氏はこの戦いに敗れ、天文11年(1542年)には逆に大内義隆による尼子氏の富田城攻めが行われ、隆兼は大内氏に従っている。この戦いも大内氏は敗れ、先に大内氏方に靡いた出雲の国人衆が多く離反するなか、福屋氏は大内方にとどまっていたようである。

永禄元年(1558年)毛利氏は温湯城主小笠原長雄を攻めてこれを降すと、小笠原氏の本領のうち温井本城を接収し、替え地として伊田・羽住(波積)を与えた。この領地は福屋氏の所領であったことから、福屋氏には邇摩郡に替え地を宛がわれたが、福屋隆兼はこれを不満とした。

永禄4年(1561年)隆兼はついに毛利氏を離反して尼子氏につき、鰐走城主牛尾久信や温惟宗などと、毛利方で吉川経安の守る福光城を攻めたが、吉川元春と宍戸隆家の援軍により福光城は落ちず、隆兼は松山城へ退いた。対して毛利元就は吉川元春と宍戸隆家を先陣として中村城と矢上城が落ち、翌永禄5年には松山城も攻められ落城。隆兼は本明城へ逃れたが、ここでも支えることができないと判断し浜田へ逃れ海路出雲の尼子氏を頼って落ちた。 しかし、ちょうどこの頃、尼子義久は室町将軍足利義輝を通じて毛利氏と和議を求めており、隆兼を受け入れられず、隆兼は大和国の松永弾正久秀を頼ったと云われる。

説 明

本明城は有福温泉町の南方に聳える標高417.2mの本明山に築かれており、主郭には金毘羅神社が鎮座している。北東の尾根先には福田城があり、福屋氏はここに居住したと伝えられる。 所在地である有福温泉津町本明は「ほんみょう」と読むが、「島根県中近世城館分布調査報告書」などのルビは「もとあけ」となっているのでこちらを採用した。なお城郭大系は「ほんみょう」、城郭全集は「おとあけ(乙明城)」で掲載されている。

本明城は山頂の主郭を中心として東西方向に伸びた尾根上に曲輪群を配した連郭式山城で、東西の規模はおおよそ900mに達する。各曲輪群は基本的に削平と切岸加工のみで、土塁は付いておらず、薬研の堀切も三条程確認できる程度である。ただし鞍部がちょうど箱堀として活用するのに適した所にあり、それを利用して曲輪を形成していたと思われる。

山頂から西に降りていくと林道の終点があり、そこまでは幅2m程の重機で削平した道が付いていて破壊されているのが残念。林道の終点から西側は、そのままの遺構が残っており、ここに浅い堀切が二条確認できる。うち西側の堀切はそれに面して土塁が付いている。土塁も確認できたのはこの部分のみである。

案 内

登山口はいくつかあるようだが、山頂から北へ伸びた尾根の先端にあるのが一番わかりやすい。有福温泉の案内板に城跡が載っており、そこから温泉街を南下していくか、県道50号線沿いにある道標から本明自治会館から入ることができる。いずれも終点の民家脇にある登山口につき、ここに駐車場がある地図。ここからの比高は約260m。

最寄り駅(直線距離)
6.9km 敬川駅
7.1km 波子駅
7.2km 久代駅
7.6km 都野津駅
9.3km 千金駅
所在地/地図
島根県江津市有福温泉津町本明(本明山)
付近の城(直線距離)
0.9km 石見 福田城
5.6km 石見 神村城
7.3km 石見 尾上城
7.6km 石見 殿峰城
8.3km 石見 加古屋城
8.5km 石見 月出城
8.8km 石見 笹山城
9.3km 石見 杭ヶ打城
9.9km 石見 市山城
最終訪問日
2011年11月
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