築城年代は定かではないが小笠原氏によって築かれたと云われる。 石見小笠原氏は清和源氏で阿波小笠原長房の子、小笠原長親が石見国邑智郡村之郷を賜ったことに始まる。長親は七尾城主益田兼時の娘を迎え川本周辺の地を譲られている。
小笠原氏が当初居城としたのは赤城とされ、その後に温湯城が築かれて本城とし、赤城は出城となった。一説に赤城は三代代小笠原長胤、温湯城は四代小笠原長氏の頃と云われている。
建武2年(1335年)足利尊氏が反旗を翻すと、小笠原氏は七尾城主益田兼見とともに北朝方として戦った。
永禄元年(1558年)吉川元春によって攻められると、小笠原長雄は温湯城に籠城し尼子の援軍を待ったが、尼子の援軍が江の川を渡れず引き上げたこともあり、翌永禄2年(1559年)に開城・降伏した。 毛利氏は小笠原氏の所領を江の川の北側へと替え、温湯城のある辺りは吉川領となり替え地として伊田・羽住(波積)を与えた。
小笠原長雄は温湯城を追われると弥山城を居城としたが、天正10年(1582年)に丸山城を築き居城とした。 小笠原氏の菩提寺は湯谷にある長江寺(写真は丸山城を参照)であるが、これは元々川本町内にあったもので、江の川以北に移ったときに菩提寺も移されたという。「漠頭玉枕」という秘宝があり、これは小笠原長隆が室町将軍足利氏から拝領したものと伝えられている。
温湯城は江の川の支流である会下川と矢谷川に挟まれた標高219mの山頂に築かれている。現在は急坂部分もあるが登山道が整備されている。
主郭は山頂にあって南北に長く小さく二段になっている。南下に二の丸の表記がある曲輪IIがあり南端は一段小高く櫓台状になる。北下には腰曲輪IIIがある。
主郭から南へ伸びた尾根には多重堀切1がある。主郭下は幅広の堀切で遮断し、その外側は東のみ竪堀として伸びている。南に少し離れたところに三条の浅い堀切がある。下りきって反対側へ登って行くと、毛利方が布陣した絵下山城に続く。
主郭の北西下にはバセンバ(馬洗場?)と呼ばれる曲輪がある。この辺りに劣化した石が多くみられ一部は積まれている。
北西に伸びる尾根には寺屋敷と呼ばれる曲輪Xがあり、広く削平されている。その下方には多重堀切7と畝状竪堀群6があり厳重に防御されている。多重堀切7の部分は尾根上部分がほとんど埋まっている。
麓に近い部分に蔵屋敷と呼ばれる曲輪XIがある。削平具合が他と異なりやや違和感があるので、畑か果樹園として使われていたのではないかと思う。
川本町の中心から県道31号線を進んで行くと目の前にあらわれるのが城山。城跡の東背後の尾根に鉄塔があり、整備用の道を使って登る。入口近くの道路が広くなったあたりに駐車可能である。
途中には各曲輪群への道標ができているので迷わず行くことができるだろう。
最寄り駅(直線距離)