築城年代は定かではないが鎌倉時代に益田兼高もしくは益田兼時によって築かれたと云われる。 益田氏は一般的に藤原氏の後裔とされるが、歌人柿本人麻呂の後裔とする系図も庶流の周布氏系図として残っている。初代は御神本兼高こと益田兼高で、元暦元年(1184年)源頼朝の呼びかけに応じて一の谷の合戦に参加し、翌年の壇の浦の合戦でも戦功を挙げた。この功によって鹿足郡を除く石見国五郡を与えられ、那賀郡上府から益田に移った。
兼高が益田に居住した所は諸説あるが、上久々茂土居、大谷土居そして三宅御土居へと益田川の上流から次第に下流へと移っていったと考えられている。そしてその詰城として築かれたのがこの七尾城で、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で敗れ防長二カ国に減封となった毛利氏に従い、長門国須佐へ移るまでの累代の居城であった。
七尾城は益田川南岸の北へ伸びた山に築かれている。 標高120m付近を主郭とし、そこから北へ伸びた東西両尾根に曲輪を配しており、現在は「益田氏城館跡」として七尾城と三宅御土居が国指定史跡となっている。
主郭は東西両尾根が繋がる標高120m程の所にあり、北に二ノ段を備える。本丸の南端には櫓台があったが現在は崩れてしまっている。南尾根には大堀切を挟んで南郭があり、東山腹に畝状竪堀群を配している。
本丸から北へ伸びた東の尾根は、先端に一段小高くなった曲輪があり、その北東下に畝状竪堀群が付いた艮の出丸がある。
本丸二ノ段から西へ降ると馬釣井の井戸があり、北へ伸びた西の尾根は南から厩の段、太鼓の段、千畳敷、北端の尾崎丸へと続く。東の尾根に比べ西の尾根の曲輪のほうがしっかりとしている。
大手門(移築 城門)
西麓にある住吉神社の参道入口に案内板や駐車場がある。 ここから住吉神社への参道の石段を登ればすぐに城域に入る。
西の妙義寺には益田越中守兼堯像があり、その近くには益田藤兼の墓がある。北の染羽町にある医王寺の総門は七尾城の大手門で、このお寺には益田越中守兼堯の墓がある。
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