築城年代は定かではないが暦応年間(1338年〜1342年)に内田致景によって築かれたと云われる。 内田氏は遠江国内田下郷の発祥で、内田致茂が承久の乱の功によって石見国豊田・貞松の新補地頭となり下向したことに始まるという。
暦応3年(1340年)石見西部の南朝方の拠点となっていた豊田城に内田致景・致世父子が籠城し、日野邦光・新田義氏・三隅兼連・高津長幸らが救援に駆けつけた。対する北朝方は石見国守護職上野頼兼を大将として周防や長門から三井氏・土屋氏・平子氏、石見からは益田兼見や吉川経明らが集結して激戦が繰り広げられた。約二ヶ月にわたって繰り広げられた戦いは北朝方が豊田城を攻め落として終結した。
その後の動向は定かではないが文明3年(1471年)には三本松城主吉見信頼の家臣豊田右衛門尉が豊田城に居たが、七尾城主益田貞兼によって攻め落とされたという。
豊田城は横田町上野の北峰に聳える標高120m程の山に築かれている。
単郭の城で東西に長い主郭は北と南に帯曲輪があり、東西両側を堀切で遮断している。 帯曲輪はやや傾斜しており、切岸加工によってできた微傾斜地のようである。西の堀切は深く明瞭であるが、東の堀切は浅く、現在は南から北へ続く尾根道の一部になっている。
整備された道はないが、南山腹にある曹洞宗守源寺の墓地から少し山へ入ると、ミニ霊場巡りであろうか、石仏が山道沿いに点在している。途中シダ類が茂っているが、北へ向かって歩いて行けば主郭の東下の堀切に出る。
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