築城年代は定かではないが平宗範によって築かれたと云われる。 壇の浦で敗れた平家の一族平宗範がこの地へ逃れて高嶽城を築き、建保元年(1213年)に厳島神社を建立したと伝えられる。
その後、平宗兼は益田兼高に従い、その没後に家臣の滝口半田時員が宗兼の菩提を弔う為に建立したのが高嶽山宗兼院だという。
正平8年(1356年)には足利直冬がここを拠点とし、北麓の大屋形に陣屋を構えていたと伝えられる。
元亀2年(1571年)石見一円が安芸の毛利氏によって平定されたとき、この高嶽城の杉森氏久だけは叔父の杉森下総守が毛利によって攻め滅ぼされたことを恨んで抵抗していたが、益田藤兼が家臣の久城主児玉小治郎を送り込んで攻め落としたという。
馬谷高嶽城は馬谷町と岩倉町にまたがる標高460mの城山山頂に築かれている。ちょうど"y"の字形になった尾根に曲輪を配しており、北東側の尾根頂部が主郭となっている。南尾根にある二条の大堀切が最大の見所となっている。
山頂部の"u"字状になった尾根は、ほぼ同じ高さの尾根で主郭部分がやや高く、土塁の付いた曲輪が残る。西側の北へ伸びた尾根先には三条の堀切があり、東側の北へ伸びた尾根は腰曲輪が連なる。
山頂部から南へ降りると広い曲輪が一郭あり、その南下に大堀切があり、主郭側は15m程の高低差である。大堀切の南側に浅い堀切で南北に区画された曲輪があり、南端も大堀切によって遮断している。
国道191号線久々茂から南へ入ってくると、大屋形の丁字路で馬谷町と岩倉町に分かれる。ここを馬谷側へ曲がってすぐに「高嶽城登山口」の道標が出ている。登山口はここから車道を道なりに進んでいくと右へ曲がる所がある。それを曲がった所にもう一つ登山道入口の案内が出ている。(登山口の地図)
最寄り駅(直線距離)