築城年代は定かではない。城主は大谷若狭守盛英で、天正3年(1575年)七尾城主益田元祥の内命を受けた竹城主の寺戸惣右衛門によって討たれたという。
広瀬城は匹見川が大きく蛇行して三方を巡る、南西に張り出した丘陵の頂部に築かれている。
単郭の城で主郭には鉄塔が建ち原形を留めていない。現状では南西に向かって段々になり、石積みがなされている部分があるが、鉄塔建設によるものだろうか。
北東背後の尾根には斜面に段違いに二条の堀切があり、内側の堀切は両側が竪堀となって落ち、城内側にそれぞれ一条ずつ竪堀が付属している。尾根は途中一段あるが、自然地形で城内には取り込んでおらず、鞍部も自然地形のようだ。この鞍部に「天正年間匹見地方の武頭 大谷若狭守盛英居趾」と刻まれた石碑があり、子孫の方が建立したもののようである。
城山の東麓、国道488号線沿いに案内板がある。主郭に鉄塔が建っているので整備用の道が使える。鉄塔整備用の道は案内板がある所から国道ではなく山上に上がる道を登っていく。途中大元神社があり、終点まで登ると民家があるが、民家の玄関前を通って鉄塔整備用の道が付いている。夏場ということもあってか、道は草に埋もれているが、上り下りせずにひたすらまっすぐ山腹を移動すると鞍部に至る。