築城年代は定かではない。 鎌倉時代に美濃地・黒谷地頭に補任され、関東より下向した菖蒲五郎真盛(実盛)によって築かれたと云われるが定かではない。
この城が記録に表れるのは南北朝時代で、建武3年・延元元年(1336年)に南朝方の波多野彦六郎が籠もっていたが、北朝方の上野頼兼によって攻め落とされている。
室町時代には益田氏と吉見氏がこの地を巡って争い、文明3年(1471年)豊田城を攻略した益田貞兼がこの横山城も支配下におさめたが、弘治2年(1556年)には吉見氏が横山城を奪っている。
天正年間(1573年〜1592年)には益田氏の家臣で原城主であった藤原宗秀(益田宗秀こと黒谷因幡入道長親)の孫宗勝が城主に命ぜられ、喜島備後守宗勝と名乗った。関ヶ原合戦で西軍に属した毛利氏が防長二カ国に減封となると、益田氏は周防国須佐へ移り、喜島宗勝も長門の市見に移って廃城となった。
横山城は桂平町と柏原町との間に聳える標高350.2mの山に築かれている。 現在は市指定史跡として整備されている。
主郭は山頂にあり、北東端が一段小高く南西に向かって長く伸びている。その南下にある帯曲輪が「厩の段」と呼ばれている。東へ伸びた尾根には四条の堀切があり、その先に一段小高くなった平段があるが、それより東方は自然の尾根地形が続く。
東端には北麓の柏原垰から南の大久保集落に至る峠道があり、これが北麓から登ってくる登山道となっている。この峠に面した尾根の東端部に段加工した平地があり、ここも遺構の一つであったかもしれない。
登山道は北と南の二つあり、南側からであればわずか数分で主郭に達する。
南の登山道は県道17号線から大久保集落に至る山道の峠にあり、入口には駐車場が用意されている。(地図)
北の登山道は桂小学校から県道17号線を少し南下した所に道標が出ており、終点の民家からは林道になっているが、その先は確認していない。(地図)
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