詳細不明。はじめ吉見氏の属城であったが、のちに益田氏の属城となり、家臣の都濃井豊前が城主となったという。
また相馬惣次郎友信という部将の居城であったとも云われ、かつてその墓があったというが、天保年間(1830年~1844年)にはすでになくなっていたという。
鹿ヶ嶽城は標高290mの城山に築かれている。地図によっては西の三角点のある309.3mの峰を城山と表記しているものがあるが、鹿ヶ嶽城があるのは東峰で三角点のある峰には遺構はない。
城山は南北2つの峰があってそれぞれ曲輪が造成されており、どちらが主郭か悩ましいが、北郭を曲輪Iとした。
北峰の曲輪Iは北側にやや土塁がつき、切岸部分には一部石積みを伴っている。ここから西下に下ると広い曲輪IIIがあるが、その先に堀切などは見当たらない。
南峰の曲輪IIは西下に浅い堀切2、東下に大きな堀切1があり竪堀を一条ともなう。ここからさらに東に下ると浅い堀状地形の先に削平地が一段あり、天然の穴が空いている。
北峰と南峰をつなぐ尾根にも平坦面があるが加工は少なく、曲輪Iの下のあたりがもともと堀切だったのか、やや加工されているが細部は不明である。
道はない。南東から214mのピークを経由して城山に至り、西の車道まで縦走したが、尾根上は歩きやすい。
最寄り駅(直線距離)