天正13年(1585年)小笠原長旌によって築かれたと云われる。 石見小笠原氏は清和源氏で阿波小笠原長房の子、小笠原長親が石見国邑智郡村之郷を賜ったことに始まり、南北朝時代から赤城・温湯城を居城としていた。
永禄元年(1558年)吉川元春によって攻められると、小笠原長雄は温湯城に籠城し尼子の援軍を待ったが、尼子の援軍が江の川を渡れず引き上げたこともあり、翌永禄2年(1559年)に開城・降伏した。 毛利氏は小笠原氏の所領を江の川の北側へと替え、温湯城のある辺りは吉川領となり替え地として伊田・羽住(波積)を与えた。
小笠原長雄は温湯城を追われると弥山城を居城としたが、天正10年(1582年)に築城が開始され、天正13年(1585年)に完成したと云われる。
小笠原長旌は病弱であったことから、長旌にかわって吉川元春の三男広家を養子に迎えようとしたが実現しなかった。長旌は自身の娘と弟元枝の嫡子三七(後の長親)を娶せ、三七を嫡男としたが、その後に実子である千代童丸が生まれた。元枝は家督を千代童丸に返還させたが、千代童丸はわずか二才で夭折、長旌も没すると、元枝が家督を継いだ。
丸山城は標高480.0mの円山山頂に築かれており、現在は「丸山森林浴公園わんぱくの森」になっている。
「島根県中近世城館分布調査報告書」に掲載されている縄張図によれば、丸山城は総石垣造りの城郭で、南の頂部に本丸・北に西の丸を配し、その間を三ノ曲輪としている。 本丸の北側が西ノ丸というのも変な名前であるが、現地の案内板にも北にある二郭を西ノ丸としているので、間違いではなくそう呼ばれている史料が残っているのであろう。この西ノ丸が城主の居住空間であったようで、かまど跡や日用生活の陶器類が出土しているという。
肝心の遺構ですが、残念ながら公園として整備されたあと、現状としては荒れ放題で、辛うじて本丸・西ノ丸を歩ける程度になっている。石垣は虎口付近は角石などが確認できるが、曲輪の側面は笹藪でどのような石積になっているのかわからない。
山頂付近まで車道がある。車道は北側と東側にあり、県道32号線にある公園の道標から案内されるのは東側の車道である。しかし、今回使用したのは北側の車道で、舗装はされているが離合不可で両脇から伸びた草が車の両脇をこすりながら登る道である。
東側の車道はどのようになっているかわからないが、公園にあるアスレチックなどの遊具も壊れて使用できないような公園なので、あまり期待できない。
最寄り駅(直線距離)