築城年代は定かではないが南北朝時代に天野氏によって築かれたと云われる。
桜井荘地頭職であった天野氏の城で、延元4年(1339年、暦応2年)北朝方の天野氏に対して南朝方の福屋兼行、高津長幸、都野神主、長瀬八郎などが市山城を攻めている。
その後の動向は定かではないが、戦国時代には福屋氏の城であったと考えられ、永禄年間(1558年~1570年)に福屋氏が毛利氏に反したとき、毛利方の吉川氏の城となったという。
市山城は藤長寺背後に聳える標高248.6mの城山(じょうやま)に築かれている。
主郭は山頂にありそこから、北、南、東の三方に伸びた尾根に曲輪を展開している。
主郭は広く平坦であるが土塁はなく、ところどころ淵に石列があり、南には基壇のような石の塊がある。主郭の南には曲輪IIを経て広い曲輪III、北には曲輪IVで帯曲輪のところに石積みがある。東には曲輪V、VIと続き北側は土塁状のスロープになり、これらが城の中心部となっている。
北尾根は三条の竪堀を組み合わせた畝状竪堀群7、IVの西下にハの字に竪堀を組み合わせた堀切6がある。
南尾根は幅6mほどもある竪堀2が途中で分岐して竪堀3となり、南東側面に竪堀4、5と幅広の竪堀を多用している。さらに尾根を下ると不整形な小さな曲輪群IXがあるが、その下方に土橋を残した堀切1がある。
東尾根はVIの下方に畝状竪堀群8がある。ここは緩斜面地形で、さらに下る部分にも竪堀が伸びその下方に浅い堀切9がある。さらに下ると曲輪VII、VIIIがあり、南側面に竪堀10、北尾根には堀切12と13、南東尾根に北側のみ竪堀が伸びる堀切11がある。堀切12は西側のみ二重になって竪堀が伸びている。
この城は竪堀に特徴があり、北の畝状竪堀群7の中央の竪堀は起点は尾根方法に伸びるが、そのまま尾根側面へと伸ばす形で尾根を遮断する。南の竪堀2や3も同様で尾根上を斜めに走らせることで尾根を遮断するように作られている。
城の中心から離れた南東尾根に曲輪群Xがある。曲輪は非常に狭く不整形であるが、北尾根側の切岸は高く、下方に東の竪堀が長く伸びる堀切14がある。お寺の方は狼煙場といっていたところである。
登山口は南麓の藤長寺にあるが、谷筋の登山道は使われておらずがれ場のように荒れている。尾根上に近い部分には登山道があり、尾根から先は歩きやすい山道が続いている。車はお寺の方にお願いして駐めさせていただいた。
最寄り駅(直線距離)