築城年代は定かではないが貞和3年(1347年)佐波顕連によって築かれたと云われる。 佐波氏は三善清行の後裔で正治7年(1199年)四郎左衛門義連が常陸国矢谷より石見国邑智郡佐波庄に来住し佐波氏を称したことに始まるとされる。
佐波氏はその後に勢力を拡げ、佐波顕連は富永三郎左衛門の女を娶り、出雲との国境近くに泉山城を整備し、出雲方面への拠点とした。元弘3年(1333年)後醍醐天皇が隠岐から伯耆へ上陸して船上山で軍勢を召されると、顕連はこれに馳せ参じた。足利尊氏は宮方を討伐するため高師泰を派遣、正平5年・観応元年(1350年)には佐波顕連の籠もる青杉城に備後山内氏や安芸毛利氏を従えた高師泰が攻め入り、約一ヶ月の防戦の末に顕連は討死した。
その後、佐波実連は嫡男頼清に佐波地頭職、二男常連に出雲国赤穴地頭職を譲っている。
天文9年(1540年)佐波隆連は尼子晴久に従って安芸の毛利氏の居城吉田郡山城を攻めたが、その後は周防の大内義隆に従った。天文20年(1551年)隆連は大内義隆に出仕して山口にいた所、陶晴賢の謀叛にあって討死した。隆連には嫡子がおらず幼い娘がいただけであったため、家督は興連の子の佐波隆秀が一時継ぐこととなり、その後は毛利氏に従った。
青杉城は標高494.7mの青杉ヶ山山頂に築かれている。南を除く三方には大きく蛇行して流れる江の川があり、その間を南北に伸びた山塊には丸屋城、安右エ門城といった支城群が築かれている。
主郭は山頂にあり「青杉城」の看板が建っている。南西に伸びる尾根には小さな腰曲輪、北東尾根には階段状に曲輪が連なる。主郭部の切岸はしっかりしているが、大手側である北東尾根以外はほとんど自然地形で、堀切などは確認できない。
主郭部から北へ降りた標高450m付近に南北に長い大きな曲輪があり、その北端からは北東側に階段状に平段が連なっている。この先端部分にも堀切は見あたらない。
登山口は北東麓にある滝原地区にあり、登りで利用したルートと下山で利用したルートを紹介しておく。
一般的に青杉ヶ山への登山口として地元の方が教えてくれたのが下山で利用したルートであるが、尾根上に達するまでに1.5km程とアプローチが長く、途中には道標もないので注意してほしい。滝原にあるお寺の南から西側の集落内の道路に入り道なりに南下すると終点に墓地がある。この近くにも寺院があったようだが今はない。道路の終点から西の山へ入ると簡易水道施設があるが、左奥へと山道が付いている。これが青杉城へ登る登山道の入口(地図)。途中何度も沢を渡り、あるかないか分からないような道を草木をかき分けて歩いて行くルートで、決して歩きやすい道ではない。沢の途中に鉄塔への登り口があり、西側を登れば丸屋城の北下の尾根に出るが、これは急坂をよじ登るような道である。谷間を抜けると公園にあるような青いベンチが壊れているが、この先も沢に沿って右側を意識して登っていく。やがてしっかりした山道になり城山の北尾根の鞍部に出る。ここから南へ登れば青杉城、北へ登れば丸屋城である。
もう一つは登りで利用したルートで、こちらは安右エ門城の北尾根に出る。入口は滝原地区にあるお寺の南から西側の集落内の道路に曲がり、最初に左へカーブする所にある。コンクリートで固められた川の反対側の電柱の脇から山へ入って行く道がある(地図)。このルートは先のルートよりも短い距離で尾根上の峠まで到達でき道も良い。ここから南の急坂を登ると、安右エ門城の北東の標高276.9mの三角点マークのある尾根に至る。ここが最初で最後の南関で笹が生い茂った尾根をかき分けていけば安右エ門城に至る。あとは歩きやすい尾根道が青杉城まで続いている。
最寄り駅(直線距離)