築城年代や築城者に関しては佐波氏、小笠原氏、高橋氏、毛利氏など諸説ある。
永禄元年(1558年)毛利氏は石見国へ侵攻し温湯城主小笠原長雄を降伏させると、小笠原氏を江の川北岸へと移し、交通の要所である丁城には重臣口羽通良を置いた。
日本城郭体系などでは「要路城」と紹介されているが、地元の方々に話をきくと皆「よぼろ(丁城)」と呼んでいるのでこちらで紹介する。
この丁城の東側には江の川が流れているが、この城の近くではこの江の川が浅瀬となっており、橋が架かるまではここを通って江の川を渡っていたようである。このことが要路という地名につながっており、この城はこの要路を押える格好の場所に築かれている。
城は江の川の西岸、光宅寺谷の北東にある山に築かれている。城は標高243mの頂を主郭として、南、南東、東、北西方向の伸びた尾根に曲輪が配されている。
主郭の北西へ続く尾根は大堀切で断ち切られ、その先にも堀切があり念入りに遮断している。東尾根は「馬場道」と呼ばれ江の川を渡った荷物を馬に乗せて城内へ入れた道とされる。
南へ伸びた尾根には途中に二条の堀切があるが、削平地は狭く削平状態はあまり良くない。南東に伸びた尾根は良く削平され、先端の曲輪は二段で、そこから東下にも削平地が残る。この付近に石垣が残っていたとのことであるが、見付けることはできなかった。
城の南側にある民家の畑には的石があったというが、残念ながら土地改良の際に埋められてしまったようである。また近くにある光宅寺には城主口羽春良(口羽通良の嫡男)の墓が残っている。
城の所在地がわからない場合は、道の駅「グリーンロード大和」にある町の案内板に場所が示されている。
整備された登山道はない。西の谷沿いに山に入って行く道があるが倒木で荒れている。この道も谷の奥でなくなり急坂をよじ登れば主郭の辺りに到達する。東の川沿いの道から急坂を登って尾根伝いに行く方法もある。
最寄り駅(直線距離)