築城年代は定かではないが南北朝時代に斯波義種によって築かれたと云われる。 義種は越前守護斯波高経の子で大野郡を賜って戌山城を居城とし、大野斯波家(大野氏)の祖となった。
大野斯波氏は義種から四代続くが義敏が家臣の千福中務大輔に討たれた為、将軍足利義政は朝倉孝景に命じて千福を討たせると孝景の弟経景を入れた。
朝倉氏が織田信長に滅ぼされると金森長近が大野郡を領して戌山城に入ったが、亀山の地に大野城を築城して移ったため廃城となった。
戌山城は飯降山から北東に派生した山、ちょうど大野城の西に聳える標高325m程の山に築かれている。現在は登山道が整備されており遺構の状態も非常に良い。
戌山城は北端最高所に主郭を置き、そこから北西、北東、南の三方に伸びた尾根に曲輪を配し、南の標高300mの所に南曲輪群を配している。
主郭はそれほど広い曲輪ではないが、三方に伸びる尾根を大堀切で遮断し、山腹には畝状竪堀群をビッシリ配して厳重に防御する。主郭の北西尾根にも小さな曲輪があり、ここも周囲を大堀切と畝状竪堀群によって防御する構造である。
主郭から北東に伸びる尾根には小さな堀切や二重堀切があり、先端に小曲輪群、側面には連続竪堀と一部横堀状の遺構がある。
南曲輪群は主郭から300m程離れた南峰にあり、ここも各尾根を堀切で遮断しているが、こちらは畝状竪堀は見あたらない。
登山道はいくつかあるが北西の尾根先にある「みくら清水」から上り、南曲輪群を経て上丁登り口へ降りてくるルートがわかりやすいだろう。入口近くの路側帯に駐車できる。
この戌山城は大野城の雲海を見る展望台としても整備されており、この場合、東から登ってくるルートが一番整備されているようである。
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