築城年代は定かではないが鎌倉時代に三条蔵五郎(大系・全集は蔵五郎、案内板では藤五郎)によって築かれたと云われる。 北にある低丘陵に築かれた城を山城城(御成山城、小茶臼山城)と呼び、南側の三条山に築かれた城を茶臼山城(三条山城、茶磨山城)と呼ぶ。
元弘3年(1333年)美濃国から大野郡に侵攻して亥山城に籠もった南朝方の堀口氏政の支城となった。 延元4年・暦応2年(1339年)北朝方の足利高経は高師直を大将として大野郡に侵攻し、茶臼山城は落城した。
淡河右京亮、武衛一族、朝倉彦之丞などが城主として伝えられている。
茶臼山城は上舌集落の南東に聳える標高322.7mの三条山山頂に築かれている。単郭の城であるが、畝状竪堀群や北東尾根の堀切と竪堀の形状など見所がある。
単郭の城で山頂に周囲を切岸で一段高く築いた主郭を置き、北に一段の小段、南東部は一部凹み曲輪を区画したような跡が残る。
北東、北西、そして南へ続く尾根は全て堀で遮断している。 南尾根は腰曲輪状の平段を一段置いて背後の尾根に堀切を設けている。南東から南西側にかけて腰曲輪状の平坦面があるが、堀切に面していない部分は畝状竪堀群によって埋められている。
北東尾根は尾根に対しては、主郭の真下を横堀状に掘りきり、その先に東に二条、西にも二条の竪堀を設けて「人」の字状が連続した形状となり、その下部でまた一条堀切を設けるという、めずらしい遮断の仕方になっている。
北西尾根も主郭下に堀切を設け、竪堀を組み合わせて北東尾根と似た形状になっている。
茶臼山城と山城城との間を通る切通しの道に標柱と案内板が設置されている。ここから山に入ることができ、尾根伝いに踏み跡があるが、下の方は草が生い茂り苦労する。北東の尾根上、標高260m付近まで登れば草が少なくなり歩きやすい。
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