越前 亥山城えちぜん いぬやまじょう
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築城年代は定かではないが延元4年・暦応2年(1339年)には南朝方の堀口兵部大輔氏政が亥山城を構えていた。
その後は、朝倉式部大輔景鏡、原彦次郎正則、杉浦壱岐法橋、二宮左近将監などが城主として伝えられており、大野郡を支配する重要な拠点であったようだ。
天正元年(1573年)朝倉景鏡は、織田信長との戦いに敗れ命からがら逃げ帰った朝倉義景を大野郡へ退くよう進言し、亥山城近くの賢松寺に住まわせた。しかし、この景鏡も織田信長に通じ賢松寺を襲撃、朝倉義景は自刃して果てた。
亥山城は現在の日吉神社境内一帯に築かれていたという。 比高10m程の微高地で、日吉神社への参道横に標柱があり、その隣の池が堀の名残だという。
大野市役所の西側に朝倉義景の墓がある。(地図)