天正2年(1574年)大野南袋七山家一向一揆によって築かれたと云われる。
天正元年(1573年)織田信長によって追われた朝倉義景を討ち、信長に投降した朝倉景鏡はその後蜂起した一向一揆によって追われ平泉寺を頼った。 朝倉氏が滅亡した後、挙兵した越前一向一揆のひとつ、南袋七山家の一向一揆が平泉寺門徒と戦う為に村岡山城に築城したのが始まりという。 平泉寺は朝倉景鏡を大将として村岡山城を攻撃したが、反撃され景鏡は討ち死にした。 これによって勝山と名付けられ、現在の地名に至っている。
天正3年(1575年)織田信長は一揆勢を駆逐して再び越前を平定すると、柴田勝家の甥柴田義宣が城主となった。しかし、翌天正5年に義宣は一揆の残党により討死、その後は勝家の養子である柴田勝安(後の柴田勝政)が城主となった。
天正8年(1580年)柴田勝安は麓に勝山城を築いて移り、廃城となった。
村岡山城は勝山市の北方にある独立峰標高301.0mの御立山山頂に築かれている。
主郭は山頂にあって一段小高く、西端に櫓台を備え南に虎口を開く。裾野は北を除く三方に横堀を巡らせており、虎口に通じる土橋が架かる。
主郭を取り囲むように配されているのが二郭で、西端、東端には土塁が設けられている。
主郭から西へ続く尾根には堀切で区画された曲輪が四郭あり、裾に堀切を設けている。 一方二郭から東は、方形に土塁を配した曲輪を置き北西隅と南東隅に虎口を開く。この小郭は桝形に近い役割を持っていたと考えられる。主郭から東側の縄張りは技巧的で、非常に見応えがある。
登山口は村岡小学校の北側にある村岡神社と北東側の寺尾集落にあります。村岡神社からの登山道は泉の所で林道と尾根上に上がる道がありますが、尾根上に上がるほうが現在の主流のようで、林道は草が茂っています。
最寄り駅(直線距離)