築城年代は定かではないが天正年間(1573年~1592年)はじめの頃に島田将監正房によって築かれたと云われる。
島田将監は朝倉氏の家臣であったが、天正元年(1573年)越前朝倉氏が織田信長によって滅ぼされると一向一揆の将となった。朝倉氏を滅ぼした信長は旧朝倉家臣の前波吉継(桂田長俊)らに越前支配を任せていたが、富田長繁との対立や一向一揆によって越前支配は崩壊し、一向一揆の支配下となった。信長は柴田勝家を将として越前平定を行うが、このとき島田将監が織田勢に対抗するために築いたのが野津又城とされる。
天正4年(1576年)頃には本願寺顕如が籠城を続ける島田将監にお礼を述べる書状を送り、加賀へのルートを押さおるためにもこの地が重要であることを書いている。しかし、天正8年(1580年)には加賀一向一揆も織田軍によって平定されており、島田氏もこの頃に城を退去したという。
野津又城は標高525mの高尾岳に築かれており、現在は登山道が整備されている。
山頂部は広い緩斜面地形が広がっており、その一角に小さな白山社の社が立つ。 山頂部の周辺は比較的急峻な地形が続いており、唯一北東尾根が緩くなっているため、北東尾根が狭くなる部分に堀切を設けている。
堀切2は現状小さな土橋を残してあり、その先にある堀切1は尾根を完全に遮断してある。北側面には畝状竪堀群3があるが、南側面には竪堀は確認できない。
堀切2から竪堀に面して土塁を設けあり、土橋部分に開口して虎口になっている。内側には岩がそのまま残っており、右折れで入る構造になっている。
虎口の外側、堀切1と2の間はほぼ自然尾根であるが、南北両側に横堀状の溝が入っている。北側の溝は堀切1と繋がるが、南側は繋がらない。用途ははっきりしないが、虎口に繋がる尾根をより狭める効果があり、多数の軍勢が一気に押し寄せられないようにしている。
登山道は南の深谷集落から付いているが、以前あったという案内板などは見当たらず(冬季で一時撤去している可能性あり)、麓付近ははっきりしないが、途中から虎ロープと木組みの階段が出てくる。道はほぼ直線的に登るのできつい。
車は梅本神社の南側にある余白に駐車できる。
最寄り駅(直線距離)