詳細不明。城主は増井甚内助、戸田与次郎と伝えられる。
増井甚内助は朝倉家臣であったが、元亀3年(1572年)8月9日に富田長繁、毛屋猪介とともに織田方に降っている。
天正2年(1574年)越前の国中一揆が、増井甚内助の籠もる方山真光寺を攻め落としており、増井甚内助は討死した。
戸田与次郎も朝倉家臣で織田氏に降っており、天正3年(1575年)の織田氏による一揆討伐に参陣している。増井甚内助討に戸田与次郎が城主になったのだろうか。
真光寺城は標高114mの山に築かれており、現在は主郭に神社が祀られている。
もともと方山真光寺(かたやましんこうじ)という寺院があった山で、西光寺のすぐ裏手に塔跡が残されているが、山全体が埋蔵文化財指定地になっている。
真光寺城は神社が祀られている最高所を主郭とした小規模な城であるが、北、東、南の三方の尾根はすべて二重堀切で遮断している。
主郭Iは北側がやや高くなっているがこれは神社建立のさいに削られたためにできたものである。南に小規模な段があり、そこから堀切までの間は傾斜している。西下にも不明瞭な削平地があるが、これは遺構ではなさそうだ。
西光寺の駐車場から塔跡を経て尾根道が続いている。 西光寺の駐車場に駐めさせていただいた。
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