築城年代は定かではないが南北朝時代に瓜生衡によって築かれたと云われる。 瓜生氏は越前国今立郡瓜生発祥で嵯峨源氏を出自とする名門である。
建武4年・延元2年(1337年)金ヶ崎城に籠っている新田義貞を支援する為に瓜生氏は出兵したが葉原の地で敗れ、金ヶ崎城は落城し新田義貞は杣山城へ逃れた。翌建武5年・延元3年(1338年)加賀からの援軍を得た新田義貞は三峰城の脇屋義助等と足利高経の籠る府中を攻めこれを落とした。足羽へ逃れた高経を攻略する為に越前北部へ侵攻した義貞であったが、僅かな手勢で藤島城へ赴く途中、足利高経が藤島城に送った援軍と遭遇し討死した。貞治5年・正平21年(1366年)足利高経は杣山城を居城としたが翌年病没した。
文明6年(1474年)越前国守護斯波氏の家臣増沢甲斐守祐徳が城主となったが、斯波氏に叛いて朝倉孝景(敏景)に攻められ敗れた。朝倉氏は家臣河合安芸守宗清を城主とした。
天正元年(1573年)刀根坂の合戦で河合安芸守は討死にした。
天正2年(1574年)一向一揆勢が織田勢と戦った時、一向一揆衆が杣山城に籠ったが織田勢に敗れ廃城となった。
杣山城は標高492.1mの杣山山頂に築かれており、山頂に主郭、山頂から西へ伸びた尾根先の頂部に西御殿、主郭から北へ伸びた尾根に東御殿、そして北麓の谷間の居館で構成されている。
林道の終点から西御殿に向かって登って行くと、不明瞭ながら二条程の堀切を越える。尾根上まで到達すると西御殿となり、南北に削平地が伸びている。若干左へ曲がる辺りの西下に二重の堀切が残っている。北へ進んで行くと両側を竪堀状に切り落として土橋状に細くした道となり、その先に西御殿の主要部である南北に長い土段がある。ここの尾根の西側に土塁が残っている。
西御殿から東へ尾根伝いに進んで行くと櫓台状の土段があり、その先の尾根に堀切が現れる。ここからは「袿掛岩」と呼ばれる岩場を越え自然地形の尾根が続く。主郭付近になると土橋の架かった堀切が現れ、主郭に達する。主郭は円形状の土段が中央にあって、北下に一段削平地がある。南側は緩やかな斜面であるが、そこから今庄側の急斜面を降りた所に一条の堀切、東へ伸びた尾根には確認していないが数条の堀切から所々に残っているという。
主郭から東御殿のある北尾根に向かっては小段が無数に連なっているが、堀切はない。東御殿は発掘調査が行われ礎石が残っている。南北に長い東御殿は数段の削平地があるものの堀切は残っていない。
居館部は北の谷間にあり、土塁が残っているが、開墾の影響を受けている。手元の縄張図では中央に桝形のような虎口が描かれているが、あまり明瞭ではない。
国道365号線から県道137号線に入って東へ進み「花はす温泉」を目指す。途中県道202号線と交差点の西100m程の所に南の集落に入っていく道があるが、これを進んだ所に山腹まで林道が通っている。この林道の終着点から登山道があり、ここから登ると西御殿に至る。
居館部からも登山道があり、県道137号線をそのまま東へ進んで行くと右側に広い駐車場に案内板が設置されている。
最寄り駅(直線距離)