築城年代は定かではないが寿永2年(1183年)木曽義仲が平惟盛を迎え撃つ為に仁科守弘に命じて築城したのが始まりとされる。
南北朝時代には今庄入道浄慶の居城で府中の足利高経に属して杣山城の新田義貞を攻めた。
戦国時代には越前国守護斯波氏の家臣赤座但馬守、魚住景固が城主であった。天正2年(1574年)一向一揆勢と織田勢が対峙したときには一向一揆勢の下間頼照が籠ったが織田勢に敗れ、後は柴田勝家が守った。
燧城は日野川に鹿蒜川が合流する地点の北西にある、東へ突き出した尾根の頂部に築かれている。北陸街道を押される要衝に位置する。
燧城は東西に伸びた尾根を削平し、東西二郭で構成されている。 東郭が主郭で、西側は土橋の架かる空堀で西郭と隔て、東側には石垣を用いた虎口が開く。虎口にある空堀は土橋が架かった堀切の南端が東へ竪堀となって伸びる。
西郭も東西に長く、西端は藤倉山へと連なる尾根道の脇に土塁が残っているが、堀切は見当たらない。
登山口はいくつかあるようですが、北麓にある観音堂の入口に大きな案内板が設置されここから遊歩道が続いている。
観音堂へは今庄駅の西口から西へ伸びる道の突き当たりを左へ曲って100m程南へ進むと右側にある。
最寄り駅(直線距離)