築城年代は定かではない。 建武3年・延元元年(1336年)足利勢に追われた新田義貞は恒良親王・尊良親王を奉じて北陸へ逃れ、金ヶ崎城に籠った。義貞は援軍を求める為に子の義顕を杣山城の瓜生氏に派遣したが援軍を得る事ができず、義顕は金ヶ崎城へと戻った。翌年2月16日ようやく杣山城の瓜生氏が金ヶ崎城への援軍を決め金ヶ崎城を包囲している足利高経軍と戦ったが敗れ、援軍に失敗した。援軍を得られなかった義貞軍は兵糧も尽き、3月6日新田義顕、尊良親王が自刃して落城。恒良親王は逃れる途中に捕まり京へ送られた。義貞は落城寸前に金ヶ崎城を脱して杣山城へと逃れた。
天筒山城のある天筒山から北西に伸び海岸に接するところにあり本丸跡と云われる月見御殿がある。 一の木戸から三の木戸まであり堀切や竪堀が残っている。