築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487年)頃に疋田久保によって築かれたと云われる。 疋田氏は越前国敦賀郡疋田発祥で藤原利仁を祖とし、利仁の曾孫伊伝が越前押領使となってその後裔が疋田氏を名乗ったことに始まるという。
弘治元年(1555年)近江国塩津の熊谷平次郎が三千騎を率いて疋檀城を急襲した。疋檀城主疋田景継は城を明けて留守であったが急報を受けて引き返し、兵を集めて城へ入ろうとしたが大手は熊谷軍によって包囲されていたので、搦手より入城して戦った。攻防の最中に大晦日となり、熊谷軍は正月三日までの休戦を申し込み熊谷軍は兵を引いた。しかし、翌日熊谷軍は軍を引き返して疋檀城を急襲し、休戦となって安堵していた城内は防戦もままならず東曲輪は焼き払われた。
元亀元年(1570年)越前へ侵攻した織田信長が金ヶ崎城・天筒山城を落とした時、疋檀城も落城したという。しかし、この時は近江国小谷城の浅井長政が信長に反旗を翻して背後を襲った為、信長は命からがら逃げかえった。
天正元年(1573年)信長は近江国小谷城の浅井氏を攻めると、一乗谷の朝倉義景は浅井氏の救援に向かって軍を発した。義景は柳瀬まで陣を進めたが、信長軍は近江国小谷城をおさえたまま、大嶽・丁野の砦を攻略した為、形勢不利と判断して義景は刀根越えで金ヶ崎城へ退く途中、織田軍に追いつかれ追撃戦となり多くの将兵が討たれた。織田軍はその後怒涛のごとく越前に攻め入り、朝倉氏は滅亡した。
疋檀城は五位川の西岸にある丘陵に築かれている。
本丸の南西隅は櫓台があり、東を除く三方が一段高くなっている。周囲には所どころ石垣があり、本丸の西下には空堀が残る。空堀の脇を北陸本線が走っている。現在は本丸を含めて大半が開墾されて畑となっている。
国道8号線と国道161号線の分かれ辺りから疋田集落に入り疋田会館を目指す。集落内の街道から西へ入った所に日吉神社があり、その前の道を南へ進んで行くとゲートボール場に着く。ここに案内板が建っている。
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