天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で柴田勝家方の砦として築かれた。 城将は毛受勝照とされる。
毛受勝照は柴田勝家に小姓として仕えた武将で、賎ヶ岳合戦で敗色が濃厚となった際、主君柴田勝家を退却させるために、勝家の馬印を掲げわずか兵二百で秀吉方の軍勢を引きつて時間を稼ぎ、最後は自刃して果てた。
林谷山砦は行市山登山口である毛受兄弟墓からの登山道が尾根上に達した辺りから北東へ伸びた尾根に築かれている。
登山道を尾根上まで登ると、史跡案内板があり、この尾根のすぐ下に金森長近の橡谷山砦、北東300mに林谷山砦と記している。しかし、当サイトでは「滋賀県中世城館調査報告」に従い中谷山砦と橡谷山砦を記しているので注意してください。
金森長近砦はこの尾根下にある山腹の平段を示しているようであるが、平段以外めぼしい地形は見あたらない。
林谷山砦はこの尾根から300m程降りていった所に主郭部があるが、そこまでの間南東側の面に対して長大な土塁が続いている。土塁は尾根が高低差によって上下するなか、そのまま続いており、外側は犬走となっている。この土塁は途中何カ所か開口部があるのだが、最初の開口部は外側に土塁が設けてあり、虎口のようになっている。
しばらく尾根を降りていくと尾根を遮断するように土塁が二ヶ所あり、曲輪を形成する。この土塁の所に「林谷山 毛受勝助家照兄弟の砦」と「林谷山 徳山五兵衛秀現」の標柱が建っている。この曲輪部分も周囲よりやや高いか同等のもので、北西側には土塁は付いていない。ただ北の土塁の外側にはl字に土塁が付いている。
南東側に付いた土塁はこの主郭部を経て更に北東へと続いていき、北端部は緩やかなカーブを描いて尾根を遮断している。登山道から約450m程の所で、400m以上土塁が続いていることになる。
余呉町新堂にある毛受兄弟の墓の所に行市山へ登る登山道の入口がある。新堂集落の所から道標が出ており、終点が墓地の駐車場になっている。
最寄り駅(直線距離)