天正11年(1583年)賤ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれた。 城将は摂津国茨木城主中川清秀であった。
羽柴秀吉に降っていた長浜城主柴田勝豊の家臣山路正国は、秀吉方として堂木山砦に布陣していたが、密かに砦を抜けだして柴田方へと走った。これによって秀吉が賤ヶ岳の陣を抜けだして美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいったことが柴田方に知られることとなり、柴田方の武将佐久間盛政が賤ヶ岳の砦を急襲した。このとき盛政が急襲したのが大岩山砦と岩崎山砦で、中川清秀は四時間程防戦したが討死し中川軍は全滅したという。
大岩山砦は余呉湖の東岸にある標高280mの大岩山山頂に築かれている。
主郭は山頂にあり南北二段で北側には中川清秀の墓が建っている。周囲には部分的に土塁が付いており、東側には虎口がある。南尾根は遊歩道になっているが、もともと堀切もなかったようで、普通の坂道になっている。
遊歩道を南の賤ヶ岳砦方面に歩いて行くと首洗い池があり、中川清秀の亡骸を土民が谷に降ろして芝で覆い隠して守ったと伝えられるが、このとき清秀の首を洗ったのがの池だという。
気になる遺構はこの首洗池付近から主郭の北東尾根先にまで続く横堀状の地形である。この遺構は主郭部の東下を横堀となって通り、その先の尾根上に向かって斜めに斜面を通っている。この地形は城の遺構なのかはっきりしないが、村の境界線としては尾根上を分断するようになっておらず、山腹を上下しながら続いているのは不自然である。
北の岩崎山砦あるいは南の賤ヶ岳砦から尾根を通る登山道があるが、今回は東麓にある登山道から登った。登山口は国道365号線が賎ヶ岳サービスエリアの西で余呉川を渡るが、その橋の西詰から左折して麓を通る道沿いにあり入口の南側に駐車スペースがある。(地図)
登山道はしっかりしているが、山腹にあるお寺の所で道がわかりづらくなる。参道の石段下から西の谷沿いに登っていくとちょうど首洗い池に出る。
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