築城年代は定かではないが井口氏によって築かれたと云われる。 井口氏は佐々木氏の庶流と伝えられ高時川の「井預り」として水利権を掌握し、湖北四家の一つに数えられた。
井口弾正経元は享禄4年(1531年)箕浦の戦いで主君浅井亮政の身代わりとなって討死した。その功によって嫡男井口経親は重用され、経元の女は浅井亮政の嫡男久政の正室となり、浅井長政の生母となっている。
井口城は現在の富永小学校一帯に築かれていたという。 遺構はないが、小学校の東の門脇に井口弾正邸の石碑と案内板が建っている。 また、そこから少し南下したところにある理覚院が井口氏の菩提寺で、井口弾正の墓という宝篋印塔がある。