元亀3年(1572年)朝倉氏によって築かれたと云われる。
元亀3年(1572年)織田軍が小谷城の付城である横山城から更に前身して虎御前山城へ布陣すると、浅井長政は越前の朝倉義景に援軍を請い、それに応じて駆けつけた朝倉軍によって山崎丸が築かれたと云われる。 山崎丸の名は朝倉氏の家臣山崎吉家が守将となったことから名付けられたと云われる。
天正元年(1572年)八月には大嶽城が落城し、形成を不利とみた朝倉義景は一乗谷を目指して退却を始めた。これを好機と見た織田信長は、小谷城の包囲を嫡男信忠に任せ、自ら先頭をきって朝倉軍の追撃を実行し、刀根坂の戦いで朝倉軍に壊滅的な打撃を与えた。この戦いで山崎吉家も討死している。織田軍によって朝倉氏の居城である一乗谷は焼き払われ、朝倉義景は大野まで逃れたが、一門である朝倉景鏡の裏切りにより自刃して果て、越前朝倉氏は滅亡した。
山崎丸は小谷城のある小谷山山頂から清水谷の西側を南へ派生した尾根、標高236mに築かれている。織田軍が布陣した虎御前山城に対する前線に位置する。
山崎丸は南北二郭の小さな砦で、北郭と南郭の間は鈎状の土塁があり、大きめの虎口が付いている。北郭は北東側に虎口があり、外側に土塁が張り出してる。この虎口の北側に一条堀切が付いている。南郭は南西側に虎口があり、南東の土塁は南へ張り出し、その外側に空堀が付いている。