山城については一乗谷城(詰城)を参照。
文明3年(1471年)頃、初代の朝倉孝景(以降、英林孝景と呼ぶ)のが黒丸城より一乗谷に居館を移したことに始まる。 朝倉氏は日下部氏を祖とする名族で但馬国養父郡朝倉荘に住んで朝倉氏を名乗った事に始まるとされる。越前朝倉氏の祖は朝倉広景とされ、越前守護(斯波)足利高経に従って越前に下向したものとされる。朝倉氏は広景以来、黒丸城を居城として高景・氏景・貞景・教景・家景と続き、一乗谷に居城を移した初代孝景と続く。
守護斯波氏の内紛の中で守護代である甲斐氏・織田氏とともに英林孝景は勢力を強めていく。応仁の乱では斯波義兼に従って西軍に属し稲荷山で目付の首領骨皮道賢を討ち取るなど目覚しい活躍を見せた。しかし、文明3年(1471年)英林孝景は斯波義兼に叛いて東軍に寝返り、越前の守護職は望みに任せるとも御内書が与えられた。
越前一国を領し、若狭、近江にも影響を与えた朝倉氏は、五代朝倉義景の時に織田信長によって攻められ滅亡した。 元亀元年(1570年)突然越前へ侵攻した織田信長は金ヶ崎城・天筒山城を落としたが、この時は近江国小谷城の浅井長政が信長に反旗を翻して背後を襲った為、信長は命からがら逃げかえった。天正元年(1573年)信長は近江国小谷城の浅井氏を攻めると、朝倉義景は浅井氏の救援に向かって軍を発した。義景は柳瀬まで陣を進めたが、信長軍は近江国小谷城をおさえたまま、大嶽・丁野の砦を攻略した為、形勢不利と判断して義景は刀根越えで金ヶ崎城へ退く途中、織田軍に追いつかれ追撃戦となり多くの将兵が討たれた。義景は一乗谷一旦戻った後、一族の朝倉景鏡に促されて大野へ退き体制の建て直しを計ろうとした。しかし景鏡には信長から内応を促す密書が届けられ、義景は自害を促され自刃して果てた。
朝倉氏滅亡の後、一乗谷に入ったのは信長から守護代を命ぜられた桂田長俊(前波吉継)であったが、天正3年(1575年)一向一揆の襲撃を受け討ち取られた。その後、越前に入部した柴田勝家は北庄城を居城とした為、一乗谷は廃城となった。
一乗谷城は足羽川の支流である一乗谷川流域の谷間に形勢された戦国時代の越前の雄朝倉氏五代の城下町である。天正元年(1590年)織田信長の侵攻により焦土と化して以来、一時守護代である桂田長俊が居城としたものの、僅かな期間しか存続せず、その後越前に入部した柴田勝家は現在の福井市街にある北庄城に居城を構えた為、朝倉氏時代の遺構がそのまま埋もれて残った希有な遺跡であり、一乗谷朝倉氏遺跡として特別史跡に指定された。
一乗谷の城下町は朝倉義景館を中心として北の谷の入口に下城戸、南の谷の入口に上城戸を設け、直線距離にして約1.7kmの範囲に家臣団の屋敷や寺社などを整備した。しかし直ぐ手狭となったようで、城戸の外側にも城下町が整備されたようである。最盛期の人口は約一万ともいわれる。
下城戸・上城戸はそれぞれ谷が狭くなった地点に設けられ、巨大な土塁と石垣で固められている。下城戸は桝形の構造で、上城戸の外側には堀が設けられている。
城下町の中心である朝倉義景館は一乗谷川東岸、一乗山城の麓にあり、西を正面として豊臣秀吉の寄進と伝えられる唐門がある。唐門は江戸時代に再建されたものである。館は土塁と濠で囲み、南西隅には櫓台が設けられている。館の上にあるのが「湯殿庭園」で四代朝倉孝景の頃の廻遊式林泉庭園である。
義景館の南にあるのが中の御殿で義景の母光徳院の屋敷跡と伝えられる。この屋敷は義景館より高く、南に石垣と土塁で固めた南門があり、東側は土塁と空堀によって区画されている。ここから東へ登って行くと初代孝景の墓所英林塚があり、現在は通行止めであるが、一乗谷城への登山道がある。
中の御殿の南にあるのが諏訪館跡で義景の室、小少将の屋敷跡と伝えられる。ここには諏訪館の庭園は規模が大きく特別名勝に指定されている。
一乗山城への入口の一つである馬出付近にあるのが伝朝倉景鏡の居館跡で、朝倉義景館と匹敵する規模を誇っていたようである。もともと朝倉氏当主の館であったが、一乗谷川が蛇行し、度重なる氾濫があった為に、当主の館は移転され、重臣に与えられたとの説もある。
もう一つ馬出付近にあるのが権殿屋敷で、朝倉権頭と伝えられている。
以下、訪問当時のものであり、変更されている可能性があります。
・一乗谷朝倉氏遺跡資料館
入場時間 | 午前9時-午後5時まで(入館は午後4:30まで) |
休館日 | 年末年始(12/29-1/2) |
料金 | 一般100円(高校生以下、70歳以上無料) |
・復原町並
入場時間 | 午前9時-午後5時まで |
休館日 | 年末年始 |
料金 | 一般210円(高校生以下、70歳以上無料) |
※復原町並、一乗谷朝倉氏遺跡資料館共通券230円
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