建武4年・延元2年(1337年)平泉寺衆によって築かれたと云われる。
建武4年・延元2年(1337年)金ヶ崎城に籠っていた新田義貞は足利高経に敗れ金ヶ崎城は落城し、弟脇屋義助と杣山城へ逃れた。 それまで北朝方であった平泉寺衆は南朝方に寝返りが三峰城を築いて立て籠ると新田義貞は脇屋義助を三峰城に送り込んだ。建武5年・延元3年(1338年)加賀からの援軍を得た新田義貞は脇屋義助等と足利高経の籠る府中を攻めこれを落とした。足羽へ逃れた高経を攻略する為に越前北部へ侵攻した義貞であったが、僅かな手勢で藤島城へ赴く途中、足利高経が藤島城に送った援軍と遭遇し討死した。義貞没後、脇屋義助は府中を拠点として守りを固めて北朝方の攻撃を凌いぎ、延元5年・暦応3年(1340年)攻勢に転じた。南朝方は一時足利高経の本城である黒丸城をも落とした。高経は加賀へと逃れて体制を建て直し、加賀・美濃・近江などから越前へ侵攻させ脇屋義助を越前から追い払った。この時、三峰城も三山重行によって攻められ落城した。
三峰城は標高404.5mの城山山頂、金谷・西袋・上戸口へ繋がる三つの尾根が合流する地点に築かれている。
主郭は山頂にあって三方の尾根に堀切を設けて遮断している。主郭から北へは土橋の架かる堀切を挟んで曲輪が連なり、その先に大手虎口が残る。北尾根には両側を切り落としてs字状に細尾根を設け敵の侵入を妨げる工夫がされている。
三峰城への登山口はいくつかあるようです。たまたま見付けた福井市鹿俣町側から登りましたが、簡単に城跡へ達するには昭和12年に廃村になった三峯村(現鯖江市上戸口町)まで車道が通っており、そこにある登山口(地図)から行くと直ぐに北の尾根先にある追分にでることができます。
最寄り駅(直線距離)