築城年代は定かではない。 城主は宮部継潤で、湯次神社の社僧善浄坊清潤の養子となり、その後宮部の地に城を築いて浅井氏に仕えたという。
元亀3年(1572年)横山城の羽柴秀吉の調略によって継潤は織田信長に降り、虎御前山城と横山城との繋ぎの城として重要視された。
宮部継潤はその後、羽柴秀吉の与力として中国方面の戦いで活躍し、但馬国豊岡城二万石ついで因幡国鳥取城五万石の大名となった。
宮部城の位置は定かではないが、一般的に現在の宮部神社一帯であったとされる。 神社境内には「伝宮部城址」の碑や宮部継潤、田中吉政の記念碑が建てられている。