築城年代は定かではない。天正元年(1573年)に浅井・朝倉軍が賎ヶ岳に布陣していた記録が残されている。
天正11年(1583年)賤ヶ岳合戦では羽柴秀吉方の砦として利用された。 城将は但馬国竹田城主桑山重晴、羽田長門守、浅野弥兵衛であった。
羽柴秀吉が美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいって留守のとき、柴田勝家の武将佐久間盛政が秀吉方の大岩山砦を急襲して砦は陥落、守将中川清秀は討死、盛政はさらに高山右近の岩崎山砦も攻め落とした。勝家は盛政に撤退を命じたが盛政はこれを無視して大岩山砦に兵を置いて維持した。その後、賎ヶ岳砦の桑山重晴も砦を破棄して撤退しようとしたが、琵琶湖を渡って援軍に駆けつけた丹羽長秀と合流して砦を維持した。さらに翌日には急を聞きつけ美濃の大垣よりとって返した秀吉の本隊も合流して佐久間盛政を撃破し、さらに柴田勝家の本隊も切り崩し秀吉方の勝利となった。
賤ヶ岳砦は琵琶湖と余呉湖の間に聳える標高421.1mの賎ヶ岳山頂に築かれている。 現在は展望公園として整備され、リフトもあって観光スポットになっている。
噂には聞いていたが、賤ヶ岳砦は公園として整備され、地形も大きく改変されているようである。山頂には東西に三つの曲輪があり、東、北西、南西の尾根に堀切を設けて遮断している。
東の曲輪は土塁が巡り、南東側に開口部があり、南側を犬走の通路が通り、南西尾根へ通じる。中曲輪は主郭部で、南端に土塁があり、北側に張り出しがある。東曲輪は北東尾根に続く虎口がある。
登山道は北尾根の岩崎山砦方面から、南の山本山城方面から尾根伝いの道がある。南東麓からは登山道の他、リフトも用意されており簡単に山上に登ることができる。
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