築城年代は定かではない。浅井氏の家臣田部氏の居城であったという。 浅井・朝倉氏と織田氏が争った元亀争乱では朝倉氏の軍勢が駐屯したと云われ、後に丁野山城主の中島宗左衛門も田部山城に合流したという。
田部山城は田部町の背後に聳える標高230m程の通称城山に築かれている。 城山は北西部を中心として東西方向と南北方向に尾根が伸びているが、城は東西方向の尾根に築かれている。
田部山城は東西に伸びた尾根の東側に広い曲輪、西端から北西方向に曲輪が連なるが、この両曲輪を含めるように土塁が付いている。
幅10mにも満たない尾根に南北両側に土塁が付いて通路状になり、東へ進むと広い曲輪となる。この東の曲輪は中央に土壇があり、その周囲を武者走りの通路として外側に土塁が付いている。東端に開口部があり、土橋が架かる深い堀切が一条東尾根を遮断している。
西の曲輪は南に虎口を開き、南尾根に一条土橋の架かる堀切がある。北西方向へ段は続いているが、遺構は不明瞭である。
田部集落にある等波神社の境内奥から尾根上に登ることができ、尾根伝いに北へと山道が付いている。残念ながらこの山道は途中西側へと降りていくようになっている。この付近から少し薮をかき分けて150m程北上すると「田部山城跡」の案内板があり、その先に堀切がある。
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