永享3年(1431年)太田垣光継によって築かれた安井ノ城がはじまりと云われる。 太田垣氏は「山名四天王」のひとりに数えられた有力国人である。
戦国時代となり次第に山名氏の勢力が衰えると毛利氏に近付くが、天正8年(1580年)但馬に侵攻した羽柴軍により落城した。
秀吉は桑山重晴を城主に置いたが、天正13年(1585年)紀伊国和歌山に移封となり替わって赤松広秀が入封した。 広秀は赤松一族で秀吉が播磨に侵攻した際に播磨国龍野城主であったが戦わず城を明け渡した。 後に蜂須賀正勝の配下となり中国・四国攻めの功により竹田城主となり広秀は朝鮮の役にも派兵し最終的に二万二千石を領した。
関ヶ原合戦で西軍に属し丹後国田辺城を攻め途中で西軍敗北の報を受け引き上げた。 因幡国鹿野城主亀井滋矩から西軍の因幡国鳥取城攻めの援軍を要請されこれに応えて鳥取城を攻略した。 この時、徳川家康は鳥取城城下町に火を放ち延焼させた罪を問い詰め、これを亀井滋矩が広秀になすりつけた為、広秀は自刃して果てる。
城は太田垣氏時代の土塁造りから羽柴・赤松時代に石垣造りに改修されたものと考えられている。
竹田城は竹田駅の西に聳える標高353.4mの虎臥山に築かれている。 2006年に訪れて以来の再訪であるが、前回は誰もいない城跡でゆっくりと見て回ることができたのだが、最近は沢山の人が訪れるようで早朝にもかかわらず沢山の人がいた。
竹田城は総石垣造りで山頂部に天守台のある本丸、南に南二ノ丸、南千畳、北東に二ノ丸、北千畳、北西下に花屋敷と呼ばれる曲輪がある。大手は北千畳の南側にあり竹田駅の西から登る遊歩道がある。搦め手は南千畳の西にある。
雲海に浮かぶ『天空の城 竹田城』を撮影する場所は二箇所あり、一般的なのが南東側にある立雲峡(地図)で、駐車場から比高180m程登った標高430m付近が第一展望台である。もう一つが、北東側の県道136号線藤和峠でこちらは展望台脇に駐車場がある。 (地図)
歩いて登る場合は竹田駅西側の法樹寺から道があり、大手門に通じる。
車の場合、西側山腹に駐車場がある。以前は北と南の両側から駐車場まで行くことができていたのだが、今は北側の県道136号線側からの一方通行になっている。
最寄り駅(直線距離)