築城年代は定かではない。南北朝時代の延元元年(1356年)に南朝方の土田太郎左衛門尉が土田冨栖城に籠もり北朝方の攻撃を受けている。
戦国時代の天文年間(1532年〜1555年)広には福富氏の城で山名祐豊に属していた。
鳶ヶ城は南北に長く伸びた山塊に築かれており、南北約1kmの規模がある。現在は登山道が整備され、ほぼ全域を歩くことができる。
主郭は北の山頂部にあり、現在は木々が伐採され、周囲からでも目を引く山容となっている。この主郭一帯の遺構は戦国時代のものと考えられ、南尾根は古城とも呼ばれ、南北長期の古い遺構とも考えられている。
主郭部一帯は高い切岸で北や南西、南の尾根に堀切がある。ここから北へ降った所に北の古城と呼ばれる領域があり、小さな段曲輪や浅い堀切が点在する。この堀切の中には小さな凹みの開いたものがあり「落とし穴」と表記されているが、この辺りの地形の特徴だろうか、城とは関係のない所でもぽこぽこ窪んだ地形が確認できるので、たまたま堀切の所にもあるだけのようである。
南の古城も三角点のある標高238.7mの辺りを中心に曲輪や浅い堀切があり、この部分は西尾根にも堀切がある。南端は堀切で遊歩道に沿って東尾根に降るとさらに段曲輪や堀切が続いている。
城主の居館は東麓の「オオヤシヤキ」と呼ばれる辺りと考えられているようで、大手はなんとその屋敷からの直登ルートだという。このルートは長い竪堀があるようで、それをたどって登っていたのであろうか。
駐車場は国道9号線沿いにあり、宮田交差点から少し西へ進んだ所の南側に看板が出ている。登山道入口もこの近くにあり、入口に縄張図入りの案内板が設置されている。
最寄り駅(直線距離)