詳細不明。永禄年間(1558年~1570年)に国吉城を攻めた朝倉軍の陣城とする説、天正11年(1583年)羽柴氏と柴田氏が戦った賎ヶ岳の戦いに備え、羽柴方の若狭衆によって築かれた陣城とする説などがある。
駈倉山城は若狭と越前の国境となる関峠の近く、標高212.6mの山に築かれている。
単郭の城であるが、山上の地形に沿って大規模な土塁で囲繞しており曲輪は広い。曲輪の内部は完全に削平されておらず凹凸を残す。土塁の内側に溝があるのは土塁を構築するための土を内側から採ったためにできたものである。
土塁線はほぼ直線的なもので、南側は地形に沿って湾曲する。西辺がわずかに折れており、虎口1に対して横矢が掛けられる。土塁の外側はほぼ自然地形で、帯曲輪(犬走)や横堀になっている部分もある。
虎口は北西隅の虎口1、北東隅の虎口2の2か所開口している。
虎口1は平入虎口の脇はやや櫓台状に土塁が拡がり、外側にかざし土塁のような鈎状の土塁が構築されている。外側の土塁は尾根の肩との間にわずかに開口するA部分と、東の帯曲輪方面に続くB部分がある。
虎口2は平入で土塁は櫓台状とはならない。こちらも外側に矩形の土塁があり、南側Cが開口する。この開口部も尾根の肩との部分に開口しており、東尾根へ出ることが可能であるが、地形としてやや違和感がある。
推測ではあるが、東尾根へは竪堀Dに対して木橋を架け、開口部Bを経由して虎口1に入ることを想定し、虎口2の外側にある桝型状空間は堡塁として機能したのではないだろうか。
整備された道はない。織田神社から国道バイパスの上のあたりをとおって尾根伝いに行くことができるが、GPSなどを活用して迷わないようにしたほうがよい。
織田神社の駐車場から池に向かう農道があり、その行き止まりにフェンスの開口部がある。ここから山に入ることができる。
最寄り駅(直線距離)