築城年代は定かではないが粟屋勝久によって築かれたと云われる。 粟屋氏の居城国吉城の出城である。
永禄9年(1566年)朝倉勢が再び若狭へ侵攻し狩倉山城を築くと、粟屋勝久の家臣粟屋五郎右衛門勝家が五百の兵で岩出山砦に籠もった。朝倉勢は岩出山砦と国吉城をいっぺんに攻めようとした為、勝家に国吉城に引き上げるように命じが勝家が引き上げる途中に越前兵は追いつき、腰越峠から百姓小屋まで攻め上った。粟屋勢は国吉城から火矢を放って小屋を焼き払い、すぐさま攻め立てて敵を追いやった。
岩出山砦は国吉城のある城山から北東へ伸びた丘陵の先端、標高89.4mの山頂に築かれている。
主郭は山頂にあって周囲を低土塁が巡り、虎口を西中央に開く。外側には虎口を隠すように土塁が設けられており、この土塁は北側へと伸びて北の曲輪に続くが、北側は山が削れてなくなっている。 主郭の南は堀切があり、やや間を置いてもう一条の堀切が続いている。
国吉城と岩出山砦の間の峠道から山に取り付くことができる。
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