若狭 国吉城わかさ くによしじょう

城郭放浪記


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若狭 国吉城の写真
掲載写真数
形態
山城(197m/140m)
別 名
なし
文化財指定
町指定史跡
遺 構
石垣,土塁,郭,堀
城 主
粟屋氏,木村定光,浅野氏,多賀越中
歴 史

築城年代は定かではないが、佐柿氏によって築かれたのが始まりで、弘治2年(1556年)粟屋越中守勝久がその古城跡に築いたのが国吉城である。

城主の粟屋勝久は若狭国守護職武田元明の重臣としてこの地を治めていた。 永禄6年(1563年)から永禄12年(1569年)まで、度々越前朝倉氏の侵攻を受けたが、尽く退け落城しなかった。永禄11年(1568年)には後瀬山城の武田元明が朝倉義景に降り、越前へ連れ去られているが、降伏勧告を退けて籠城した。

元亀元年(1570年)越前の朝倉氏を攻める織田信長は、この国吉城に入り若狭衆を先陣として越前に攻め入った。この戦いで粟屋勝久は大いに武功を挙げ、武田元明を救出した。その後、若狭に所領を与えられた丹羽長秀の与力となった。

天正11年(1583年)木村定光が国吉城主となり、城下町を整備した。天正15年(1587年)浅野長吉が若狭の領主となると、江口三郎右衛門、浅野平右衛門らが城代を務めたという。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後、京極高次が若狭へ入部すると、家臣の多賀越中が国吉城主となったが、後に一国一城令によって廃城となる。

説 明

国吉城は佐柿集落の東方に聳える標高197.3mの城山山頂に築かれている。 山頂の主郭から北西に伸びた尾根に段々と曲輪を配し、西尾根に伝二の丸(出丸)、麓には城主の居館があった。

主郭は山頂にあり、北端と東端に虎口、南端に櫓台らしき高まりが残る。前回2006年に訪れた際には猿の大群が主郭を占拠していたが、今回は一匹も見ることがなかった。

主郭から北西に伸びた尾根に北西曲輪群があり、主郭との間に堀切がある。この堀切の部分が現在発掘調査中のようで、両側に石積が露出し転用石と思われる石仏が何体が置いてあった。石積は主郭の周りにも所々残っており、低い石積を何段か重ねていたような感じである。

北西に伸びた曲輪群は大きく五段あり、西中央や北東端などに虎口を設けている。

居館部からの登山道の途中にあるのが伝二の丸(出丸)で、ここには見事な食い違い虎口が残され、分厚い土塁になっている。ただ曲輪自体小さく、尾根側には堀切もない。

案 内

麓に若狭国吉城歴史資料館があり、そこから整備された登山道がある。

最寄り駅(直線距離)
1.8km 東美浜駅
2.8km 美浜駅
5.6km 粟野駅
6.0km 気山駅
8.2km 三方駅
所在地/地図
福井県三方郡美浜町佐柿
付近の城(直線距離)
0.3km 若狭 国吉城居館
0.4km 若狭 佐柿陣屋
0.8km 若狭 山上田ノ上城
1.2km 若狭 岩出山砦
1.9km 若狭 中山の付城
3.2km 若狭 駈倉山城
3.3km 若狭 狩倉山城
3.4km 若狭 土井山砦
5.3km 越前 金山城
6.5km 若狭 一宮城
7.6km 若狭 堂谷山城
7.8km 若狭 三方城
8.4km 越前 花城山城
8.8km 若狭 鳥浜城
9.6km 若狭 南前川城
10.0km 越前 敦賀城
最終訪問日
2014年8月
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