永禄7年(1564年)朝倉氏によって築かれた。
武田義統の要請により国吉城の粟屋氏を攻めた朝倉勢は、太田村の芳春寺に陣取り国吉城と対峙していたが、その後裏山に砦を築いて拠点とした。これが中山の付城で、朝倉太郎左衛門景恍が城将であった。
中山の付城に陣取り米や畑を荒らし回った朝倉勢に対し、国吉城の粟屋氏は翌永禄8年に夜襲をかけ、朝倉勢を追い払った。
中山の付城が落ちると朝倉勢はいったん退き再び狩倉山に付城を築いている。
中山の付城は芳春禅寺の西背後に聳える標高145.5mの山頂に築かれている。
主郭は南北に長く周囲を土塁が巡る。虎口は北東、西中央、南東にあり、北東の虎口は北にある土塁の付いた小郭へ、西中央の虎口はそのままスロープ状の通路、南東の虎口は南東尾根の曲輪に通じる。
主郭の南西にはやや幅広の土塁があり、その脇に「国吉城見張之趾」の石碑が建てられ、近くには「一石多字経塚」の石碑もある。
南東尾根の曲輪は緩斜面で長方形に近い形で土塁が巡る。南西側と南東隅には土塁が付いていないが、虎口は不明である。その外側に浅い堀切が残る。
山上に登る道は付いていない。墓地の辺りから山に取り付いた。
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