築城年代は定かではない。
南北朝時代に若狭守護職一色氏の守護代を務めた三方氏の居城と考えられている。 三方氏は津々見氏の末裔とされ、守護が一色から武田に変わる頃には没落していった。
永享12年(1440年)若狭守護が一色から武田に変わると、安芸国から惣領家の熊谷美濃守信直が若狭に入国する。このとき拠点としたのがこの三方城と考えられており、熊谷氏はその後、大倉見城を築いて居城としている。
三方城は臥龍院の東背後にそびえる標高110mほどの山に築かれており、現在は主郭に鎮座する小さな神社への参道が通じている。
山頂の神社境内となっているところが主郭Iで、小規模な段が造成されているが大半は神社建立などによる後世の改変と思われる。北東背後に続く尾根を堀切4で遮断しているが、この堀切に面して土塁を設けている。現在土塁は開口して土橋となっているが開口部は後世のものと考えられる。
主郭Iから南西に向かって曲輪II、IIIと続く。参道の石段が整備されているが、主郭Iと曲輪IIは北側でスロープとなって接続している。
西尾根は堀切1と竪堀2、曲輪II、IIIの東側面に竪堀3が確認できるが、参道が続く南西尾根側には現状堀は見当たらない。
臥龍院の南側に稲荷神社の参道鳥居がある。稲荷神社の右上のあたりから石段の参道が主郭まで通じている。
鳥居脇に立ち入り禁止の看板があるので臥龍院の方に問い合わせたが、山に入る分には問題ないとのこと。寺の方は三方城があるのはご存知だった。
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