築城年代は定かではないが熊谷氏によって築かれたと云われる。
熊谷氏は武蔵国熊谷郷発祥で、若狭の熊谷氏は永享12年(1440年)若狭武田の祖となる武田信栄が若狭を与えられ入部したのと同時期に、安芸国三入庄から熊谷美濃守信直が若狭に下ったのが始まりとされる。
若狭武田氏が衰退し、朝倉、織田の影響を受けるようになると、熊谷直之は織田氏に従うようになり、後に、豊臣秀吉に従い豊臣秀次の家臣となって三河に所領を賜った。しかし、文禄4年(1595年)豊臣秀次事件に連座して嵯峨二尊院にて自刃した。
大倉見城は十村駅の北西に聳える標高270.1mの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
山頂の主郭から北東、西、南東の三方に伸びた尾根に曲輪を展開し、なかでも北東の尾根が主軸となっている。
北東尾根は曲輪I、II、IIIと続き、IIIの北西下に帯曲輪IVがある。北東尾根を遮断する堀切1は北に向かって竪堀が長く伸びており、その内側には雛壇状に細長い平地が続いているが、その性格は不明である。
西に伸びる尾根には主郭下にVとVIの腰曲輪があり、その先に尾根を遮断する堀切3がある。腰曲輪VIの北下には二条の竪堀3があり、その間が帯曲輪となっている。
南東に伸びる尾根には主郭下にVIIとVIIIの二段の腰曲輪があり、その先やや離れて堀切5で遮断する。主郭とVIIの間には南側面に竪堀4が落ちている。
登山道入口は南尾根先の十村駅側にあり、入口に案内板が設置されている。入口付近に駐車可能。
最寄り駅(直線距離)