永禄9年(1566年)朝倉氏によって築かれたと云われる。
永禄8年(1565年)国吉城の粟屋氏の夜襲を受けて中山の付城を失った朝倉勢が築いたものとされる。 しかし、この馳倉山付城は別の城であった可能性も指摘されている。
狩倉山城は越前と若狭の国境にある旗護山の峠を越えて若狭へ侵入した所にあり、比高40m程の低丘陵である。
城はほぼ円形で南の一部を除いてほぼ二重に横堀を巡らせた構造になっている。曲輪内は削平されておらず、緩傾斜が残っている。
南東側の横堀には土橋が架かるが、外側は二箇所、内側は一箇所で、ほぼ一直線になっている。
山の北側に回り込むと山上に通じる道が付いている。これを登って右側の山上に登ると城跡。
最寄り駅(直線距離)