築城年代は定かではない。城主は日高氏と伝えられる。
日高氏は岸岳城主波多氏の重臣であったが、弘治3年(1557年)波多氏の後継問題で日高大和守資(たすく)は岸岳城内で毒殺された。資の子甲斐守喜(このむ)は謀叛を起こして岸岳城を奪いとって波多氏を追い落とし、弘治9年(1566年)には壱岐へ進出して平戸松浦氏に属したが、弘治12年(1569年)波多親に岸岳城を急襲され壱岐へ逃れた。
日高城は浦集落の北背後に聳える標高141mの山に築かれている。
山頂部の北から南端までが全体的に大きな曲輪となり北端と南端にやや整地された曲輪があり、南端は観音像などが祀られている。全体的に岩がゴロゴロした地形であり、曲輪の造成も甘い部分が多い。この主郭部の北から東側面に掛けて短い畝状竪堀群が巡っている。
南麓にある長久寺の下に浦公民館分館があり、ここに日高城の案内板がある。この案内板の近くからの登り道は藪に埋もれて現在は利用できないので、もう一つの北西側から登る道を使うことになる。この道は途中まで林道で、北の鞍部を経て登ることができる。駐車は林道の途中に駐めることも可能である。
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